立ち食わぬそば
憂鬱な朝だと感じる事はあまり無い。
自分で選んだ生き方だし、現在だと私は常々思うのだ。
後悔の無い人生かと問われれば、口籠ってしまうが大きな不満は無い生活だと自負している。
そりゃ、少年時代に思い描いていた様な明るい未来を得られはしなかったが、
少し薄暗い今が私の目には優しく心地良い。
平凡、いや平均よりも低い生活水準かも知れない。
しかし、私の様な人間には十分な生活を送れている。
東京郊外、駅から遠く離れた団地から毎日1時間前後かけて通勤。
人によってはうな垂れてしまう様な人生かも知れないが、私には心地良い。
どう良いかは説明出来ないのがもどかしいけど、外界のノイズを遮断すれば何の不満も無い生活なのだ。人生なのだ。日々なのだ。
だがしかし、そんな日々にも時々嫌気がさす事がある。
蟻の中には必ず、働かない蟻が何割か発生すると言う話を耳にするが、多分私は働かない蟻の側なのだと思う。
子供~青年時代、何なら今だって一遍たりとも労働に対する「やり甲斐」何てものを感じた事が無いのだ。
それか、職業に貴賎は無いと言うが、私の従事してきたしている職業が基本的に創造的では無く、上から指示された事をこなすだけの、一時流行った「非生産的」ものだからなのかも知れない。
そんな事を毎日の様に考えながら今日も私は朝の満員電車に揺られ、職場の最寄り駅で電車から吐き出され、トボトボと賃金を得るため労働に向かう。
見慣れた通勤路、見慣れた人並み、見慣れた街の様子に喧噪。
目を瞑ったままでも歩けそうな気がしたので、目を瞑って少し歩くと、鼻こうに何が入ってくる。
懐かしいような、落ち着くような、沸き立つようなそんな香りが漂っている。
何度も何度も通い、何度も何度も飽きて、何度も何度も再訪してしまう、労働者のオアシス、夏の虫にとっての火、立ち食いそばだ。
私は一時思考が止まる。
それは、理性が本能と拮抗している刹那の瞬き。
コンビニで適当な菓子パンでも買って歩きながら朝食を取るのが、経済的且つ合理的なのは分かっている。
だが、私は自分の食事にそんなものを求めてはいないのだ。
「文明の発展、繁栄、安定と引き換えに人類が去勢してきた「本能」。
解放してしまうと、現代社会においては問題が多々ある三大欲求。
そんな三大欲求の一つ「食欲」を解放するカタルシスの味を私は知っている。
抗う事よりも抗わぬ事の方が、現代社会において悦楽なのだ。
雀の涙が如し資本金を用いて、エルドラドへと参る。
入店。
食券機と向き合う。
限られた情報、経験則から選び出した一手は・・・・かき揚げそば。
この店には朝定食的なメニューは無い。
なので、選択に金額の事を視野に入れずにすむ。
純粋に食べたい物を選んだ結果だ。
そこに余計な見栄や意地は介入しない。
奇をてらったりせずに、選んだ「かき揚げそば」だ。
店主に食券を渡し、コップに水を自ら注ぐ。
セルフサービスに眉をしかめる年配者が多いが、合理的且つ店との一体感を感じるこの感じが私は好きなのだ、
ここは立ち食いスペースもあるが、殆どの客は店の奥にあるカウンター席に座り蕎麦を手繰らせる。
私もそのクチだ。
立ち食いそばフリークスから、半端者と叱責を喰らいそうだが結構結構。
立ち食いそば屋で立ち食わぬ矛盾にほくそ笑む余裕がわたし達にはあるのだ。
手繰り寄せたるは希望か絶望か、そんな事を意味もなく思いながら啜る。
啜る。
啜る。
時々、喉を鳴らしながら水を食む。
啜る。
七味唐辛子を振りかける。
唐辛子の辛味が冷え切った心と胃をジワジワと温める。
時たま、咳き込んでみたりもする。
思考の入る隙間も無い「食」の時間。
自分がどこの誰かなのかも忘れそうになる位の引力を持つ食事と言う行為に抗う事は出来ない。
嗚呼、無情なんて曲が昔流行っていたけど今がそうなのかも知れない。
光陰は矢の如し過ぎゆく。
急に現実が押し寄せてきた。
箸がそこをついたのだ・
手繰り寄せるそばが無くなり、かけ汁を飲み干し呆然と天を仰ぐ。
そこに広がるのは、人工的な煌めきを放った蛍光灯。
「そろそろか・・・・」
店主にご馳走様と声をかけ、いそいそと身支度をする。
これから、労働に揉まれに行くのだ。
気持ちと反する事をして、生きる矛盾を抱えているのが我々労働者だ。
混濁する視界の中に微かな灯火を求め、今日も生きようと思う私である。
備考
今週も労働に揉みくちゃにされたので、今回もこんな感じである。